善良である理由

私は善き人ではない。

他者からの評価はどうだか知らないが、少なくとも自分を見つめるもうひとりの自分は私のことを、どちらかと言えば悪き人だと思っている。

人が見ていないところではよくないことをするかもしれないし、ばれなければそれは為されていないのとほぼ同義だと思っている。

 

以下、何の役にも立たない自己弁護と言い訳をのたまおうと思う。

 

そもそも善良である理由、必要性とはなんだろうか。

私は道徳だの倫理だのすっとばして、まず社会的な立場を維持するためだと考えている。

明確な悪は法で罰され、心情的にも物理的にも不自由を強いられることになる。

だから人々は自身を律し、正しくあろうと努めるのだ。

これは完全に個人的な意見であり、もちろんそうでないという人もいるだろう。

しかしそれは正義だとか、情だとか、あるいは摂理だとかいう名目によってうまいことコーティングされた利己性なのではなかろうか。

 

……ここまで書いて陳腐さが半端ない気がしてきたので、もう少し正直に飾らずに書くと、

 

俺は自分と、自分を取り巻く人達以外のことは大して慮ることもないし、モニターや活字のなかにいる非実在の人物に感情移入しても、全然知らない実在する人物のために腰を上げるようなことはしないし、極度の吝嗇家でハイエナ根性を芯に生きてるような人間だということ。そして往生際悪くそれの言い訳を取り繕おうと躍起になってるってこと。

 

ただ、やはり居直りたくなる。

清廉潔白そうな面して歩いてる“立派な奴ら”より、俺のほうがノミ一匹分マシだと。

やっぱまだ中学生マインドだな。こじらせすぎている。こんな記事は燃やしても環境汚染物質しか発生しない。ちんちん。