自覚の話

如何なる人も生きている間、最も多くの時間を共にするのはその人自身だと思う*1

 

しからば、その人にとって最もよく知る人物とはその人自身となる、ような気がするのだが、ことはそう単純ではないのかもしれない。

 

物理的な話をすれば、人は自身の姿を遍く認識することができない。

あくまで認識可能なのは鏡像や写真などに映る姿だ。

眼球を取り出せば話は別だろうと考えたりもするが、まあそんなことは現実的とはいえない。

つまりは、本当の自分なんてものは一生涯かかっても分かりはしないわけだ。

これは何も物理的な話に限定されないのではと、わたしは思う。

 

自分はこういう人間だ、なんてことをなんの疑問も持たず断言するのは危険極まるのではないか。自分を客観視なんてのはできなくて当然なのでは。

そりゃあ、出来うる限り自分のことを知ろうと尽力し、社会の調和のなかでうまいことおさまろうとすることは悪いことじゃないと思う。

けれど、やっぱり無理でしょ、っていう。そんなにみんな自分のことわかってないでしょって。

大体がして自身の立ち位置って、仮に個人の思う理想や想定があったって、周りの大多数がどう見てるかで比率が大きく変わっちゃうでしょう。

いくら四六時中一緒にいる自分だって、その自分に票を入れるとしたら一票だよ一票。

自己肯定感を持つことは大切なことだと思うよ。でも、それが単なる驕りならそれは小さな暴君だよ。

 

なんて、別にだからなんだってことでもないのですが、書き連ねておきます。

 

こんなわたしも、きっと小さな暴君なのでは、と思ったりしつつ。

*1:結合双生児の方々の事情はあまりよく知らないのでここでは言及しないでおきます