合理的であることの非合理性

僕は頭が悪い。

このアタマガワルイというのは、勉強ができないという意味も、賢くないという意味も両方含む。

そう、僕は地頭が悪い。ついでに性格も悪いし根性もない。良いのは視力ぐらいのものである。

 

と、なぜこんなしょうもない自虐を記事の最初に持ってきたかというと、合理性の話がしたいからである。こんなことを言っている時点で自分の頭の悪さが浮き彫りになってきた感があるが、まあそれはそれとしよう。

 

僕は理系でも文系でもなければ、もちろん体育会系でもないので、理系文系論争には加われないし、パイの実を食べるほかないしその点トッポってすげえよな、最後までチョコたっぷりなわけで、要するにインテリジェンスな事柄に一定のコンプレックスを保持しているのだけれども、それはともかく、だ。

今回お話したいのは僕が思う、合理的であることの非合理性である。

理系の――あるいは理系であることに強いアイデンティティを見出している――方々はやたらと物事が合理的であるかどうかを重要視する気がする。感情論が嫌いで、物事には法則があって、最適解を求めることが正義だと思ってそう(小並感)。

別に理系云々で括らなくてもジェンダー論の話でもいい。

男は合理的、女は感情的、みたいなステレオタイプのあれだ。

 

この手のカテゴリー分けみたいなことは基本的に嫌いなので、実際に合理的であることに重きをおいている人、あるいはそういうスタンスについて、その危うさを述べたいと思う。

 

まず、人はコンピューターではない。

今のところ、サイバーパンクよろしく電脳化や義体化されてるわけでもなければ生身の人間で、動物だ。

故に合理的であることが正解だというのは、常にではない。

もちろん、物事をロジカルに捉えて、ことがスムーズに行くよう、よりよくなるよう努めることは大事なことだと思う。

だが、それはあくまで時と場合によるということを頭の片隅に入れておきたい。

精神が摩耗して、首の皮一枚つながっている人に必要な言葉は合理的なものではないと思う。

お金がなければ生きていけないけれど、文化的な生活を維持するために心を殺してしまうのは、ガソリン臭くて嫌だ。

世界だとか地球だとか大きな主語のために、小さな誰かが苦虫を噛み潰すのは看過したくない。

 

まとまりのないこんなことを書いていて思ったけど、僕は基本的にJRPG精神が強いんじゃなかろうか。

 

というか、合理的であることを肯定すると、たぶん僕は生きていられないのである。

ここまで書いておいてなんだが、もちろん感情論も過ぎれば危険だとは思う。

何事もバランス感覚が大事なのだ、とひとりごちる。

 

なんかそれっぽいことすげーそれっぽく書くつもりがサガミオリジナルみてえに薄い内容になっちまったよ。